うちの旦那はヲタクで外国人。
タイトル、明らかにパクってます。笑
今までの日記を少し振り返ってみたところ、旦那のことあまり紹介してない。笑
自分のことばかり述べていたので、今回は旦那のことを少し紹介しようと思います。
一言で言うならばタイトル通りです。
アメリカ人でオタクというかサブカルチャー好き。いや、やっぱりオタクか。
メインはゲーマー。そしてアニメ好き。一番好きなアニメはジョジョと奇妙な冒険ですがジブリも好きだしガンダムやエヴァといった日本が誇る大作も好きです。
日本語は話せませんが、簡単なものなら少し言えます。(というか、我が家では英語と日本語での会話が入り混じっている。笑でも、ちゃんと理解している)
出会いは私がアメリカ留学して間もない頃に登録した、今はやりのデーティングアプリ。今となってはセフレ探しのためのアプリ化としてしまったようですが、当時はそういうものでもなく、実際にそれでお付き合い、結婚まで至った人も知っていました。私は彼氏、彼女として付き合う云々の話として考えてはいなく、まずはお友達になれたらいいなあという思考でした。(まずはお友達からという定番セリフですが本当にこうなるとは当時思っていなかった。笑)そのデーティングアプリを介して実際に会った中の3人目が現在の旦那となる人でした。
実際に会う前の2週間ほどテキストでのやり取りをしていたのですが、会う1週間前にちょっと違う州に旅行に行ってくるねって言ってた時点で(勘のいい私は)女の匂いがしていたので、やはりこの人はお友達として会うと誓っていました。
ということもあり、出会った時の第一印象は「いいお友達になれそう」でした。
(のちに明らかとなるのですが一緒に旅行に行っていた相手は元カノでした。笑)
日本にはない文化のデーティング文化というものに疑問を持ちながらもそれから月日は流れいつのまにか彼女になりました。
当時は日本へ帰国するつもりでいたのでまあ、期限付きかな。とも思っていました。(何気なく酷いこと言っている。笑)
でも半年過ぎた頃に彼が同棲しないか、と重大事項を持ち込んできました。日本までの帰国タイムリミットはあと6ヶ月。
悩まなかった。笑
あ、いーよ。楽しそう。的な。
でも、私のクレイジーな行動は一層ひどくなり、大雨の夜中に大げんかをして車を走らせて友人宅へ逃げ込んだこともあった。(拗ねで心配して欲しかったからなのかも)口も聞きたくなくて顔も見たくなくて一人で外に散歩に行って3時間帰らなかったり(完全に拗ねてる)、部屋の中のもの全部ひっくり返して家具を破壊したり。(笑)携帯勝手に見まくったり、パソコンの検索履歴を定期的にチェックしたり、カバンの中をあさったり、本当に彼が浮気してるんじゃないかって疑ってばかりいた。これは好きの裏返しで誰か他の人のものになるんじゃないかって怖かったからゆえの行動だったのかなって今では思う。こうして文面化してみると本当に自分の行動すごかった。でも心配だったんだよね。苦しかったよ、常に。
私だって一人でこんなに狂ったように生きていたわけではなく、それに至るまでの様々な原因も当時の彼にはありました。(インスタで可愛い女の子にいいね!押したり、コメントしていたり。過去に使用していたであろう出会い系サイトが大量に残ってたりね。さっきも会話に出てきたけど元カノ事件?があったり。)
本当に4年前は旦那のことが好きすぎるが故にその愛情が歪んだ形になってしまっていたんだろうと思います。というか彼に常に私のこと見ていて欲しいとか、構って欲しいとかそんなんばっかりで愛情くれくれ星人になってしまっていたが故に自分の気持ちを考えたり、自分の気持ちに意識を向ける余裕がこれっぽっちもなかった。
そして学生ビザが切れる3ヶ月前に旦那が「結婚しよう」と提案してきた。
この時点で彼の両親、兄弟にもすでに会っていて結婚するつもりでいるということを彼が勝手に発表していました。
こっちとしては「はあ?」と思いつつも一緒にいるためにはその手しかないよね、、、
と思いつつ、少し考える。(それだけ共依存状態だったんだと思う)
クレイジーな私で良いのか?この女問題でだらしがない彼がいい旦那になれるのか?私はどうしたいの?わからない、と自問自答が続く。悩む。
そして1ヶ月が過ぎた頃、気づく。
彼の様子がなーんかおかしいぞ?はい、リサーチ開始。笑
開始してから3日後に尻尾を捕まえる。
ヤリ目サイトにの彼の写真と自己紹介が記載されていて、私が用事ある日をターゲットに空いている女の子を探していました。
その証拠写真を全て写真に収め(我ながら頭が冴えてる)、お前の企みはバレているぞとのコメントとともに彼にテキストでその証拠写真を全部送付したうえで電話をかけてFワード炸裂しました。笑
仕事に行っていたはずの旦那が慌てて顔真っ青で帰ってきて謝ってきましたが私の怒りは止まらず手と足が出てしまいました。ボッコボコにしたよね。鬼の形相だったと思う。笑
そして私はというと。もう悩まず帰国しました。笑
めでたしめでたし。
これで第1章はおしまいです。
第2章は別ブログで記載しているので興味のある方はどうぞ。笑
というように自己肯定感がもともとすごく低くて自分に自信がなくて常に誰かの評価が自分に対して評価になっていたから彼に完全に依存して自分じゃ立っていることもできない女になってしまっていたわけです。だから旦那がいつ浮気するんじゃないか、捨てられるんじゃないかってヒヤヒヤして怖くて怖くて、勝手に旦那に好きでいてもらえるようにやりたくもないことを頑張ってみたりして、ただただ苦しかった。
旦那がやらかしてしまったようなアホな決定打がないと帰国して自我に目覚めなかったかもしれん。
一時帰国は私にとって本当に必要なことでした。
自分が自分でいてもいいんだと思えるプロセスの一部だったのだと思います。
今でも肯定感が低いことは変わりないし、多少は他人の評価を気にしながら今でも生き続けてはいますが、今はとーーーーーーーーっても楽に旦那と過ごせています。
前みたいに苦しいということが全くない。
私のクレイジーな習慣が本当に不思議なぐらいになくなりました。
「大丈夫でしょう、彼は私のことが好きだ。」と自然に思えるから。
私が去ってしまった後に彼が彼自身で自省し、抑うつ状態になってしまって彼も彼自身で苦しみを味わったみたいです。喪失体験に近い、と彼は言っていました。猛反省したようで今は以前のような習慣は全くなくなりました。(私が気づいていないだけなのかも。笑)
遠距離恋愛がお互いの薬になったのかもわかりません。
相変わらず、心の中というものはお互いに見えないから喧嘩もあれば口論もある。歩み寄りが必要だったりもする。絶対に譲れないものもある。イライラもする。離婚したいって結婚してから3ヶ月はほぼ毎日思ってた。きっと今後もこんな日が来るのかもしれないけれど(笑)今は今で幸せ、あらゆることに感謝。って毎日思う努力していたら自然と旦那のいいところも見えてきたわけで。ありがたいなって思えることが増えてきました。(上から目線。笑)
同じ空間にいて、お互いが別々のことをして過ごしていても何も不満はないし居心地も悪くない。むしろ、旦那に趣味があって本当に良かった、ってオタク活動を尊重というか羨ましく思ったりしています。
逆に私も好きなことを好きなだけさせてもらっていて本当に感謝。頑固な私に合わせてくれて感謝。やりたいことしかやってないけど尊重してくれて感謝。わがままな私にぶつかってきても結局は折れてくれて感謝。笑
たまに文句を言うけど一緒にいてくれて感謝。
「今一緒にいたい」から一緒にいる。
これでいいと思うんです。他に理由はないし、私も頑張る自分をやめたら相当楽になりました。
頑張らなくても私は愛される。少なくとも私に。笑
また結局は私の話になってしまいましたが、結局は自分次第だっていうことを伝えたかったわけです。相手中心ではなく、世界は自分中心で回っているんだってぐらいの図々しさでいてもあらかたのことは許される。むしろそのぐらいでいてもいい。
自分の人生だもの、自分が中心にいなきゃいけないんだけどさ。
他人の評価ばっかり気にしていたら自分の人生じゃなくなってしまうよ。
まずは自分が幸せになること、楽しいこと、したいことをしてみる。
肩の力抜いて、リア充をSNSで発信している人のことは放って置いて。笑
自分のことだけ考えて行動してみると自分のこと好きになれると私は思う。
夜中のポップコーン、レディースデイの1人映画館、銭湯、マッサージ通い、休日の引きこもりでドキュメンタリー番組を見まくる、ビーチで頭を空っぽにする練習、猫と戯れる、本を読む、漫画を読む、Netflixで涙活する、ベッドの上にゴローンする、サッカー見る、散歩すること、英語の勉強をすることが私の肩を抜いたリアルなリア充生活だと思っています。渡米してからはメインの楽しみだったレディースデイも銭湯もないから、再度好きなこと、したいことを地道に探してみています。
また自分の話になってた。笑
結論としては、オタクの旦那に感謝ってことで。笑
後半戦;アメリカ(CA州)での運転免許習得への道のり。
前回の続きです。
Secondary reviewの手続きをしてください、と言う話から。
ペーパーテストを受けた5days business day後に本部へのDMVへ手続きのための電話を入れました。
状況を一通り話すと「証拠としてAB60のために提出した書類はなんですか」と聞かれたため『パスポートとI-94、マッリッジサティフィケートとバンクからの手紙とインシュランスカンパニーからの手紙です』と答えると「You don't need to take the process, everything is perfect. You'll be approved your situation!」と返答がありました。要するに、やはり私のリサーチ情報の方が正しく、出向いたDMV職員が正しく状況を把握していなかったことが発覚しました。不思議と怒りはなく(ゼロかと言ったら嘘)、次のプロセスを電話をくれた人に確認。3週間以内に本部のDMVから仮免と手紙(正しいプロセスを踏んでいるのでSecondary interviewは必要ないと言う一筆が書かれているもの)が送付されるのでそれが届き次第実技試験の予約が取れるよ、と言うことでした。
The 安堵。
そして無事にその旨の手紙と仮免が2週間ほどで届き、実技試験の予約を取りました。
第1回目は6月末。
数あるDMVの中から家に一番近いところではなく、20分先にある一番最新のfacilityを選択。なぜなら旦那の猛プッシュがあったから。
練習は試験前日に旦那と一緒に周囲を運転し、注意点を数カ所確認したのみ。
当日はものすごい緊張で試験前に2回もトイレへ行き、旦那がイライラすると言う失態を犯したほどでした。
さて。路上へ出発!と言う前に...試験官から複数の注意点を伝えられ、車の構造のテストとハンドシグナル(手信号)をチェック。
結果はというと路駐の際に縁石に思いっきりぶつかってしまったため(テクニカルアウト;一発アウトのミス)、不合格に。
30年間生きてきた人生の中で一度きりともあらゆる試験に落ちたことがなかった私は人生で初めての不合格をもらい、ダメ人間のスタンプを押されたような気持ちになってしまい、大号泣で旦那に八つ当たり。悔し涙が止まらなかった。仕事を早く切り上げてついてきてくれた旦那にも申し訳なかったわけです。
第二回目の予約は1ヶ月後の7月末。
前回と同じところのDMVを選択。練習は1度もすることができない状態で臨む。
緊張×2。トイレ回数2回。前回と同様の緊張レベル。
試験官は女性の人で見た目すら怖い。そして旦那が「俺落とされた人だ、気をつけてね、彼女はタフな人だから」と余計な情報を入れてくる始末。
前回と同様のプロセスから始まり、路上へ。今回は路駐もバッチリ!でしたが、カリフォルニア州で認められている赤信号の右折の際に安全確認+3秒ストップということを知らず、安全確認したのみで発進したことと、ストップサインで3秒止まらなかったこと、Bumpサインでスピードを落とさなかったことが原因で試験から「もっと練習するように、はい、不合格」と言われました。
Holly s****!
再度不機嫌になり、旦那に八つ当たり。だって、アメリカだと16歳の子ですら運転免許取れるわけなのですよ、てか実際とってるし。なのになのに、なぜ私は取れない?30歳、いろんな苦労を乗り越えてここまで生きてきました。なのになのに、なぜ私はこうも落ち続ける?悔し涙はすでに1回目で枯れた。今回は怒りが止まらなくなる。
実技試験に3回落ちたら次はもう一度ペーパーテストからなのです。
もう後がない。
プラスアルファで、怒りもピークに達しており、次の予約を取る際に自宅から一番近いDMVのFailityを選択しました。もうここで受けたくない!という怒りの気持ちと(練習を一度もしなかった自分が悪いのは重々承知)近場なら練習できるという気持ちに火がついたわけです。一番新しいFacilityだろうが大きいFacilityだろうが関係ねえ。私は一番自宅から近いところを選択してやる、誰がなんと言おうがだ!という強い信念のもと試験会場を変更しました。
旦那は呆れモードで、パーソナルインストラクターを雇ったらどうか、と提案してきました。調べたところ2日間×3時間で360ドル。(約4万)高い、無理。ということで却下。
第3回目は約2ヶ月あいて9月中旬でした。
決戦の日は金曜日。月曜日から試験日の金曜日まで毎日DMVへ出向し、練習してやりました。自分でDMV周囲を走り、注意事項を確認に確認を重ねました。毎日2時間ほど練習しまくった。道で迷子になった先で見つけたアイスクリーム屋さん(すごく美味しかった)にも通いつめた。笑 でもそのおかげで、DMV周囲の様子はバッチリ覚えたし、路駐も何度も練習したため路駐マスターになりました。
そして迎えた決戦日の朝。この日の予約は午前中で旦那がどうしても抜けられない仕事があったので、旦那の友達についてきてもらいました。(今更ですが、試験は仮免保持者のものが一人で行くことができないので、カリフォルニア州のドライバーライセンス保持者が同伴でなければいけません。)これが良かったのかも。笑
始まる前まで世間話をしながら、プレッシャー少なく、楽しく時間を過ごしました。トイレへ行った回数はたったの1回。
試験官はご年配のちょっとふくよかな女性の方。車に乗った瞬間、車が揺らいで、少しドキドキした私。前回、前々回と同じような流れで試験始まり、運転ルートも山を張っていたルートが大当たりし、5日間通いつめ、見慣れた、走り慣れているルートを走るだけだったので気持ち楽に運転することができました。試験官の女性の方は隣でフーフーと荒い息をしていて、看護師である私としては何かしらの発作を起こしてるんじゃないかと気になって仕方がなかった。笑
結果は合格。計15点までのミスが許されていますが、私は11点のミスをしていました。(自分的には完璧な運転だと思っていたから少し残念だった)
合格した瞬間涙ポロリ。試験官に「何泣いてるの?」と言われたので「嬉しくって泣いてるんです」と言ったらはあ?みたいなリアクション取られました。
無事に合格し、AB60として試験を受けていた間に(4ヶ月もかかった。笑)グリーンカードが手元に届いたため免許証をREAL IDとして申し込みできないか相談したところ、できるよー!とのことだったのでそのままStatusを変更してもらい、無事にREAL IDとして免許証をゲットできました!この日のDMVの職員さんは本当に優しくて親身的で丁寧な方々でした、そして面白かった。アメリカンジョーク炸裂。
補足ですがREAL IDとは米国市民や永住権を持つ移民、各種ビザを持つ合法的な外国人居住者に発行される運転免許証や身分証明書のことです。国内線航空機の搭乗、米軍基地や連邦政府施設、原子力発電所に出入りする際にこのIDの提示が求められ、これを持っていない人は2020年9月30日までに切り替えする義務があるものです。
もしグリーンカードが手に入る前に試験にパスしていたら、この手続きをまたやらないといけない羽目になってたという2度手間な訳だったのです。
色々あったけど良かった。
長くなってしまいましたが、この経験を通して試験に落ちるという挫折感を人生で初めって味わいました。負けん気が人2倍強い私にとっては心が痛いことだったけれど必要なことだったのかな、とも思います。
達成感が半端なかった。やりきったぞーっていう。
心もぱあああと晴れ、胸張って運転できるようになりました。(渡米してから試験に合格するまでは国際免許証を使っていました。)
ID提示を求められる時もドヤ顔で運転免許証を提示しています。
挫折感を味わうのはものすごく辛かったけど、トランポリンと同じで下に落ちれば落ちるほど飛躍力が出るわけだから、高くジャンプできる日が近いってことなんだよね。
努力ももちろん必要。
でも、もっと大事なのは挫折感に押しつぶされてもういいや、って投げやりになるよりも自分なんかって自分を自分でいじめないで、自分を自分で励まして凹んだ気持ちをプッシュアップしてあげることなんだと思った。そして美味しいものを食べたら、はい、終了。努力できる自分に生まれ変われるから。
あと、こうやってネタにできた。笑
今では大笑い話。
これでよし。
前半;アメリカ(CA州)での運転免許取得への道のり。
移住手続きの分野で一番手こずったのがタイトル通りの「これ」です。
日本での運転歴はほぼペーパーに近い感じで、今回渡米する前に留学していた時に6ヶ月程度アメリカでの運転歴がある程度です。
私が運転免許取得の申し込みをした時の滞在ステータスはまだK1VISAのままでした。しかも期限切れになる2週間前とか。
ここで確認しておきたいのが運転免許を取得する際に必要書類として、学生ビザや駐在ビザの方であれば滞在ステータスを証明できるVISA(期限切れになる60日前までのもの)と、I-94、CAに滞在証明していることができる公的機関から送られてきた手紙2通とパスポート等のID等、SSN(社会保障番号)が必須です。
がしかし。K1(婚約者)VISAで入国された方ならご存知かもしれませんが、K1VISAの有効期限はたったの90日。これは、入国してから90日以内に結婚式をあげてください、という由来から来ています。
ということは???
入国してから30日以内に運転免許の取得をしてくださいってこと?でも、筆記を受けることができても実技試験になると筆記試験からさらに1ヶ月先とかになるからその間にVISAの有効期限切れちゃうじゃん?とかクエスチョンマークだらけ。
謎が謎を呼び、訳がわからない状態に。
というてもSSN(社会保障番号)を申し込み中だったため、それがない状況で我に返る。笑
でも運転免許は必須!
そしてリサーチしている過程でカリフォルニア州にはAB60という制度があることがわかった。VISAの有効期限が切れていても、パスポートとSSN、カリフォルニアに滞在していることを証明できる手紙2通があれば運転免許が受けられるという制度。
当時はグリーンカードの面接予定がまだ未定でEADコンボカード(就労許可)はまだ持っていなかったけれど、フィンガープリント等は終わっていてグリーンカードのお知らせがいつ来てもいい状態でした。ちなみにSSNも届いている状態でした。ちなみにマリッジサティフィケートも持って行きました(パスポートの名前とアメリカでの名前が違うため)。
必要とされている書類を全て揃え、いざDMVへ1人で出陣。
受付は問題なく通せてもらえたのですが、次の書類確認の窓口で「VISAの有効期限が切れてる」と指摘されたので『AB60で受けたいんですが。』と伝える。すると「できない、リーガルで滞在していることを証明できる書類は?」と言われたのでマリッジサティフィケートとUSCISからのフィンガープリントが終わったという書類を提出。すると「これはフィンガープリントが終わったというだけで、グリーンカードがもらえるという保証がある書類ではない」と正論を言われる。
そして目も合わせずに「グリーンカードが手に入ってからもう一度受けに来るか、DMVの本部に電話をして二次審査を受ける手続きをして。どっちがいい?答えて」とお役御免的な?投げやりみたいに言われる。
「わかりました、ちょっと考えます」と涙目で1回その場を去る。
外に出て、深呼吸して真っ青な高ーーーい空を見て(笑)、悔しくなる。
だってこの日のためにペーパーテストを受けるために徹夜して勉強したし、朝の6時にDMVに来て2時間並んで待った。写真撮るかと思って化粧もバッチリした。笑
なんならインストラクションに沿って書類を全部揃えたし、ちゃんとAB60のルールと権限まですら読み込んだ。
そして思った。『私は正しい。間違ってない。私はこのまま何もせず帰るなんてことしたいのか?いいえ、したくない!!!!!』笑
もう1度旦那とその仲間たちが言っていた”DMVの職員は全員が全員正しい知識と最新の法律を知っているという職員だらけではないんだ”ということを思い返し、窓口へ再度出向く。私なりにAB60の説明をし、私は受ける資格があるとカウンターにかじりつきながら主張する。
そしたらため息つかれながら「じゃあ今日はペーパーテストだけ受けて、二次審査を受ける手続きをして。今日はペーパーテストに受かっても仮免は発行できないからね」と言われました。
なんとかペーパーテストは受けさせてもらえることに!(拍手)
ペーパーテストはタッチパネルで4択の中から選ぶ形式でした。
ルールと標識の2分野に分かれていて各20問ぐらい。
勉強方法はDMVのサイトにあるルールブックを読み込むのと過去問をひたすら解きました。どちらもサイトにありました。
ペーパーテストを受け終わった後の手続きで再度『5日営業日以降に必ず二次審査の申し込みの電話をしてね。それで二次審査をパスすれば本部のDMVから青い手紙が届くからそれを持ってまた来てね。そしたら仮免が発行できるからね』と言われる。「どのぐらいかかるの?」と聞くと『わからない。1年かかる人もいれば半年の人もいる。こればっかりは本当にわからない』と言われました。
帰宅後に二次審査について調べました。(実はあんまりわかっていなかった)
Secondary reviewと言います。
DMVの公式サイトによるとAB60という制度を使った場合にもし公的機関に認められたIDとカリフォルニアの在住証明ができる書類がない人がこのプロセスを受けなければいけない。このSecondary reviewとは私が提出した書類などを全て再審査して領事館に私のことを問い合わせしたりして危険な人物ではないです、正当な理由で滞在していますという証明を他の機関も交えて証明する過程のようで、この書類審査にパスしたらさらに面接がある、という非常に面倒なものでした。
色々話が大きいことになってフラーっとしましたが、まあ大丈夫。どうにかなる。と。
何よりもこの日の収穫は諦めなかったこと。
ああ、そうですか、ならいいです。って言ってたら本当にせっかくのチャンスを流してしまうところだったんだよね。
何か他の道はないのかって進んでみるのも悪くない。
旦那に言わせると「これが本当の運転免許の第一歩の試験だったんだよ」って。
上手いこと言う。笑
今日は長くなったので次回、続きを書こうと思います!
渡米から今までをざっくりと振り返る。
放置したつもりはないのにまた半年以上の月日が流れてしまいました。
2月に無事に渡米し、結婚式を挙げて、そのまま8月にグリーンカードの面接があり、無事9月にグリーンカードを得ました。
車の免許が難航し、5月から取得に動き、9月末にようやく取得ができました。
これでようやく移民第一ステップが終了。濃厚だったなあ。
日本にいる間は、毎日がストレスでいっぱいだったのに、アメリカに入国してからというものは本当にストレスフリーでほんんとうに同一人物か、というぐらいのほほんとして過ごしていました。
旦那がいたから、と言いたいところですが環境の大きさの方が大きい気がします。笑
青い高い空と人が少ない環境、広い道路と飼い猫のベビちゃん。
この3点セットは自分にとって本当に大きい存在のような気がします。
最初の3ヶ月は旦那と経済的な問題、家事分担の問題、文化の違いなどなどで喧嘩を繰り返し、本気で日本へ帰ってしまおうかと何度も繰り返し思っていました。話をしても分かり合えない、相手の嫌なところまで見えてしまう、自分の心の狭さに何度も自己嫌悪に陥りました。
アメリカについてからの最初の3ヶ月は車社会なのに車もない(=行きたいところへ行けない)、何もすることがないで本当に忙しく過ごしていた私にとっては地獄の日々でした。監獄にいるのかって思っていたぐらい。知らない間に涙がボロボロ出てくる、ベッドから出たくない、旦那に恨みつらみをぶつける。抑うつ状態に近かったと思います。(旦那が心配してほぼ毎日仕事のお昼休憩に家へ戻ってきて生存確認をしてくれるぐらいでした。笑)
我が家のベビちゃん(猫)はかなりの人見知り、警戒する猫なのですが、常に自宅にいてお世話するのが私だったのでそんな猫ちゃんにもすぐに懐かれてしまった、というエピソードがあるぐらい自宅にいる日々でした。何していたかというと、毎日起きてから午後3時まで布団の中でYouTubeをみるという生活。笑
モヤモヤの日々が続く中で長い人生の夏休みだと思おう、と努力?して毎日散歩することから始めてみました。ありがたいことに自宅から徒歩5分の距離にビーチがあるのでそこを散歩しながらマインドフルネスをしているうちに「何もしなくても私は私として存在して良い」と思えるようになり、心がスーッと晴れていきました。吹っ切れた、というべきかな。
ここで行動しないと!と自分に一番必要なものを考え、出した答えが「車の免許と車と英語力。」いくら語学留学していたとはいえ、2年も英語圏を離れると英語脳は退化してしまっている。英語力の自信?ない。笑
まずは語学、と思い調べたところ、アダルトスクールを発見!しかもESL(English Second Language)がある!【英語が第二言語の人のための英語のクラス】しかも無料!Enroll(受付開始)の日を調べ、申し込みしに行きました。ありがたいことに家から車で3分、バスで15分のところ。この時は車を持っていなかったのでバスで行こうと腹をくくりました。(アメリカのバスは本当に時間通りには来ないし日本のような交通機関とはまるで違います。)
これがものすごく良かった!週4日学校へ行き、友達もでき、英語脳がどんどん蘇ってきて、何よりも規則正しい生活になりました。
勢いもつき車の免許も取得しようと重い腰をあげる。(これはまた別の機会に話そうと思います。笑)
と同時に学校が始まる1週間前に知り合いの人が急遽日本へ帰国することを決めたので車を買って欲しいと絶好のチャンスがくる。破格の安さですごくいいコンディションの車を購入させていただきました。
今は引き続きESLに通いながら寿司バーで働かせてもらっています。
今後のプランとしてはもともと看護師として長期間働いていたし、この仕事が好きだからアメリカのRNを取得しようと思っています!(長期目標。笑)
人生の第二章の始まりだと思って、一度きりの人生を楽しみたいと思います。10年前の自分を楽しませて、ワクワクさせてあげられるような人生を送りたいです。
そして毎日を大切にして、一瞬一瞬を大切にして、周りにいる人と自分を大切に。
濃厚な移住生活をマイペースに更新していこうと思ってるので、気楽にお付き合いよろしくお願いします。
国際遠距離恋愛を振り返る。
明けましておめでとうございます。
年末年始は久しぶりにテレビとお友達になってコタツの中でぬくぬく過ごしました。
紅白と日テレを行きつ戻りつしながら「嗚呼、これぞ日本の年末」と感じました。
星野源さんのideaを聞くと、半分、青いを反射的に思い出してしまうような感覚で日本の年末を過ごしていました。
テレビばっかりを見ていたから、CMを目にする機会もありまして。
最近やっているJTのCM。モンゴル800のキヨサクさんが歌をオリジナルで歌っているやつです。「想うシリーズの第2弾」です。
遠距離になってしまったカップルを描いているのですが、これを見た瞬間に号泣。
すっっっごいね、気持ちがわかるのよ。
私もみんなに散々聞かれました。
「遠距離?大丈夫?」
それでこう答えるしかなかった。
「全然平気、大丈夫」
はい。正直に言います、全然大丈夫じゃなかった、自分ときちんと向き合って、自分はこのままでいいんだって思えるまでは。
昔と比べて、今は携帯もパソコンもあるから大丈夫でしょって言う人もいるけど、会いたい時に会えない。時差が違うから私がお昼はあっちが夜。私が夜ならば相手は昼。時間のすり合わせが大変だった。
私が特にパンチを食らっていたのは道端や街中のカップルを見るたびです。
人の幸せを幸せだねって思えない自分に自己嫌悪になる。
upsetして彼に電話するも出ないとそれがfrastrationになる。出るまで電話をする、をモットーにしていたスーパークレイジーな時期もありました。それで怒られることも度々ありました。(でもめげないで連チャンコールをする。笑)
JTのCMでもあったんだけど、メッセンジャーを何回も開いて既読になってるかどうかを何度も確認したりしてた。既読にならないと不機嫌になる。
それで、彼に八つ当たりというか「なんでテキスト返さないの?」「浮気してた?」「別れる」っていう失礼な発言を繰り返す。彼も最初の方はすごく頑張ってくれていたけど、そうだよ、疲れるよ。人間だもん。
そして、遠距離になってから10回目ぐらいの私からの「別れる」コールでお互い連絡を取ることをやめました。SNSも全部ブロック。本気のやつ。
全然いいこと書いてないですね。笑
でもこれがリアルでした。笑
連絡を絶って3ヶ月ぐらい経ってから、私の誕生日に彼から連絡が来ました。
この3ヶ月で10人の外国人の方々とデーティングをしていたけど、やっぱり彼がいいなあと思っていたので返信をしてみることに。
でもこれがきっかけになって、また前みたいに毎日連絡とるようになって、彼から「やっぱり結婚してほしい」と言われたので12月会ってから決めたい、とお返事をして12月に会った時に正式なプロポーズを受けました。答えはイエス。
自分の中でたくさん考えた。愛とは何か、結婚とは何か、国際結婚とは、私は移住して彼と幸せになれるの?とか。
考えた結果。
分かんなかった。答え出なかった。だから考えるのをやめてみた。
一緒にいたいから結婚する。
これでいいのかなって思った。
私が今も幸せなら、どこにいようと幸せ。
つまりは、幸せは私の気持ちの持ちよう次第。人生も幸せも私次第だから彼がいようといなかろうが変わらないのな。
こう思えてからすごく生きやすくなった。頭の中がネガティブな妄想でいっぱいにならなくなったんです。前みたいに出るまでかけます、電話は。みたいなクレイジーモットーは消え、(たまに発作あるけど。笑)メッセンジャーの既読確認も全くしなくなりました。今となっては連絡取らない日もたまーにあるぐらい。
あー連絡ないなあって思う日もあるけど、仕事行ったら頭がきちんとスイッチできるようになって、まあいっか。って思えるようになった。
過去に囚われて不安を自分で作り出すのではなく、
未来のあらぬことを妄想して不安を自分で作り出すのではなく、
今目の前にあることを大事にして小さなことに幸せを感じてみる。
寂しいなって思ったら誰かを頼るのもいいけどその前に自分の感情を味わい尽くす。味わって味わって味わって浸って、浸って、浸って悲しい映画見たり、面白いテレビ見たりしてスッキリしてみる。「涙活」っていうやつなのかも。
自分の感情を第三者の自分で見てみる。
そして今に集中をする。自分がすべきことは自分を守ること。大事にすること。
自分を信じる、とか大事にするって意味がずーっとわからないまま生きて来たんだけど、最近少しわかるようになって来た気がする。
簡単に言えば自分が「あ!これがしたい!」って思ったことは無条件に受け入れてみる。条件並べてやるかやらないか決めるんではなくて、wantだったらする。
「嫌な予感がする」「気持ち悪い」と思ったことは避ける、しない。
自分の直感を信じる。
そして、不可抗力と戦わないこと。頑張らない。
マインドシフトは1日じゃだめ。行きつ戻りつ毎日のトレーニング。
自分が安定してくると自然と様々な関係も自然と安定してくる。
彼を自分の寂しさを埋めるための道具として使わなくなる。
彼に愛情クレクレ星人じゃなくなる。
自分で自分を幸せにしてあげる、リラックスできる方法が見つかってくる。
ありのままの自分でいいんだって思えたら、もう怖いもん知らず。
こうなってくると、遠距離に感謝できる。
遠距離があったおかげで大事なことに気づけた。まずは自分から。
遠距離って悪いことだけじゃない。
小さなことに感謝できるようになって、小さなことに愛情を感じるようになる。
周りのカップルがしている当たり前が当たり前じゃないことに気づいて、羨ましいと何度も思ったり、会いたい時に合える関係に嫉妬してしまったりする、するよ。全然大丈夫じゃないのに大丈夫なんていう言葉を使って自分を大きく見せてしまったりすることもある。他人の幸せを喜べない自分もいる、いるよ。
隣の芝生は正に青い。
半分、青い、的な。笑
でも大事なことは私はちゃんと私の恋愛をしているんだって自覚すること。
そうしたら、相手に感謝も生まれる。
連絡が苦手なタイプなのにきちんと連絡とるように努力してくれるところとか。
一緒にいて、会えるということは当たり前のことじゃないんだなあって気付かされたり。
ささやかなことに喜べる、幸せを感じれるようになった。
愛情を過剰に求めない努力は必要。断捨離と一緒。
会えない溝に愛はきちんと流れてる。
愛情は目に見えないから気づくのに難しい。
だけど見ようと努力するときちんと見える。
何かを見て相手のことを思い出すのは愛情の一つ。
結論
距離を考えるよりも自分の感情と付き合ってみる。
だって一番長くお付き合いを続けている人って自分だもん。
これから遠距離になってしまう人も今遠距離な人も思い出して欲しいです。
あなただけじゃないよーって。
Lulu.
年の瀬にしんみりと。
またまた日が空いてしまいました。
タイムラインに更新があったので記載したいと思います。
2018.03 上旬 I-129F作成開始
2018.04 中旬 I-129F(やっと)提出
2018.04.23 UCSICから受理したよってメールが彼に届く
2018.05 下旬 彼がNOA1を受け取れなかった。再度送付してもらう。
2018.06 中旬 NOA1(やっと)受理
ここからが長いです。
2018.10.16 NCVからI-797[NOA2]が届く。
2018.11.18 日本在アメリカ大使館から届くはずのインストラクション通称”パケット”が1ヶ月過ぎても届かない。みんなのブログを見てると大体2週間以内には受け取っているから心配になったし、NOA2の紙に『30日以内に連絡なかったら連絡ちょうだいね』って書いていた。彼に早急にNCVに連絡するよう指示を出し、してもらったところ『16日にケース処理が終わったところ』と言われたとのこと。
2018.11.28 NCVから『東京大使館にレター送ったからね』と彼にメールあり。
2018.12.07 アメリカ大使館のCECSが「Ready」になった。
2018.12.16 10日過ぎたがパケット届かず。大使館にメールで確認。
2018.12.18 大使館から「住所が間違っていたので大使館に手紙が戻ってきています」と返答あり。大使館にもう一度住所を送る。
2018.12.22 母からパケットが届いた、と報告が入る。
2018.12.22 DS-160作成し、ビザ面接予約とる。
2018.12.26 警察署で渡航許可証の申請と聖母病院で健康診断を受けてくる。(Tdとインフルエンザのワクチンを同時接種してきました)
えーっと、8ヶ月経ってますねえ。(しみじみ)
今日は母への思いが強い日。パケットを受け取ってくれたり、母子手帳を見たり、昨日実家に帰った時にさりげないクリスマスをしてくれてたからかな。
私の母はとても若くして私を産みました。
母も一人の人間、完璧じゃない。わかってるけど私が幼少期から思春期、大学時代にかけて母に対してあまりいい感情は持っていませんでした。
母は美容師をしていて休みがなくていつも忙しそうにしていたこと、私が思春期の時にギャンブルにハマってほぼ家にはいませんでした。大学の時もギャンブルするお金がないから頂戴、と実家から離れたところに一人暮らしをして学費と生活費をアルバイトと奨学金で自力でまかなってギリギリの私に悪びれもなく、ほぼ毎日連絡をしてくるような母でした。そんなもんだから、とりあえず自分が国家試験を取るまで連絡を取るのをやめようと思って3年間着信とメール拒否をしていたことがあるぐらい「敵」と思っていました。
両親に金銭的な援助や物資面での援助を受けているクラスメイトがすごく羨ましかったのをよく覚えてます。高校の時もそうだった。受験・試験となるとみんな親からのサポートがある子たちが、すごく羨ましかったことを覚えてます。なんで自分は違うんだろうっていう思いが、何でもないようでいて、実はずーーーっと心の中にしこりとして大人になっても残ってた、ということが最近判明したんですけどね。
大人になって、少しずつ母との距離感がわかってきて、少しずつコミュニケーションをとるようになりました。私は小さな頃から大人でいないといけないって心のどこかで思っていたから未だに母親への甘えかたは分からないんだけど、このままでいてもいいのかなって最近は思っています。
タイムラインにも書いてあるんですけど、今回のパケット受け取りそびれ事件は結局フィアンセがI129の時に住所の番地をすっぱ抜けて記載していたから起こったことでした。でも私は、パケットが届かないことに苛立っていたこともあって、何も悪くない母を責めてしまったんです。その時にその感情のままに流され30年分の思いをぶつけてしまいました。「あの時こうして欲しかった、こうされて嫌だった」「親はいないと思って今まで一人で頑張ってきた、頑張らざるを得なかったんだ」という思いを初めてカミングアウトしました。言えなかったことを言えたことによる安堵感と大人でいなければいけないと思い続け、それを続けてきた今までの私が一気に崩壊してしまったような喪失感で1日中泣いてました。心が重くて体も動けない、無気力な1日だった。
でも、母は電話越しに私のカミングアウトをずっと聞いたあとポツリと一言。
「毎日ポストを開けるたびに手紙が届いていないとお母さんもがっかりするんだよ」
って。母もパケットが届かないことを案じてくれており、その母の思いを想像すると涙が止まらなかった。その手紙が届いたら娘は海外に行ってしまうということを分かりながらも同じ気持ちでその手紙を待ってくれてる母はきっと複雑な気持ちだったんだろうな、と。なのに八つ当たりをしてしまった私。思いっきり大人げなかった。
そして健康診断に必要な母子手帳を見て私が生まれる前と後の数年の記録を知る。
母が私が生まれる前にどんな思いでいたのか、予防接種を漏れなく受けさせてくれていたこと、成長の記録をどんな風に思っていたのかを知った。
さらに昨日実家に帰宅した時に、大好物の肉じゃがを作って待ってくれていて、クリスマスだからってスーパーのチキンとショートケーキを買って待っててくれて、お風呂の準備もしてくれてた。
私、気づいた。
母の愛に気づかなかっただけなのかなって。見えてなかっただけ。見ようとしてなかっただけ。
今までの長い間心の中で育ててきたしこりがカミングアウトをできたことで、少し浄化されたような気がした。その後苦しかったけど、カミングアウトのおかげで母が私に送ってくれていた無償の愛に気づくことができた。
歪んだレンズが矯正されたような感じ。
初めて眼鏡をかけて、あー、世界ってこんなに明るかったのねって気づくのと同じような感覚。
渡米前に大切なことに気づけてよかった。
常に特攻隊みたいに前進することが人生だって思っていきてきたけど、
一つ一つの出来事を味わって、自分の中で消化してあげて、受容してあげる。
そしたら今の自分がいるのは過去の自分がいたからって気づくこともできる。
ああ、実は私もらってたわ。って。
母は母だ。今までもこれからも。
年末家に帰ったらちゃんと感謝伝えよう。
ありがと、ごめんねって言おう。
Lulu.
日本での仕事のこと。
私は自分の仕事にすごく誇りを持っていました。
そもそものアメリカ留学を決めた理由も自分のキャリアアップのため。
私は看護師をしています。
大きい病院で5年働いてアメリカ留学を決断。
理由は緩和ケアを勉強したいから。とかっこいいことを言ってみるけど実際のところの理由はなし、です。はい、なんとなく、です。
何か変えたかったのかな。当時の心境はそんなところ。
今思えばよくもまあ決断したものだ。決断してわずか3日後には申し込みしてた。
今の職場と繋がるまでは、ほんと必然だったことなのかな、と今になっては思います。
アメリカ留学に向けてお金を稼がないといけなくなり、仕事の他にアルバイトを始めました。友達が訪問看護ステーションの所長をしていて、働きたいと言ったら、あっさりいいよーって。それから本職の傍、訪問看護を始めました。これがまあ、ハマる。
病院の看護とは大きな違いがあって、患者さんがあってのオーダーメイドの看護が存在する。
病院だとオーダーメイドの医療はない。病院のやり方・方針に沿ったパッケージが存在する。そのパッケージに患者さんを合わせる。これはこれで、早期退院という目標に沿ってのプランだから急性期の病院の方針としてはあってる。
私は入職時に急性期あってるなー、好きだしやりがいあるなあと思っていたけれど、訪問看護の世界をチラリしてから終末期に対しての看護観が一気に変わり、魅力的になりました。
今思えばなにゆえにこんなに終末期に魅力を感じたのだろうかと思うけど、きっと在宅にあっての終末期が好きなのだと思いました。
私が仕事をしてて常日頃から思っているのは誰一人として同じ最期はない。
人間って唯一同じことが「生まれる」と「死ぬ」ことのみであって、その中間は誰一人として同じ人はいないわけであって。双子であったとしても違う。
その人がどう生きてきたかが最期の瞬間に出る、というか。
誰かのそばに居続けるってすごく精神力も気力も体力も必要なことだけど、最期に大切な人を見送れた後の幸福感って何ものにも変えがたいこと。
話は大きく逸れましたが、このアルバイト時代のつながりで帰国後に再度、所長をやって居た友達に働けない?と聞いたら、「週3日うちで働くっていう約束だったら」と別のステーション(現在の職場)を紹介してもらって、現在の職場の管理者の方と話をしたらもう秒殺でここで働きたい!と思い、「友達のところでは働きませんので週5で雇ってください」という華麗な裏切り(笑)があり、現在までに至っております。
この職場でたくさんの患者さんと出会って、
たくさんの人の人生と最期を看て、
私の中でもたくさんその人の人生を考えて、
白黒ばかりではなくグレーでもその方とご家族が「納得」した答えだったらそれもありなんだ、と思えました。
白黒つけたいことばかりだったけど、この経験でこの世界は白黒だと思って居た私の価値観が180度変わって実はグレーばかりなのかもって思えました。
スタッフのみんなにも恵まれました。みんないい人。
私、幸せなんだなあって思った。
アメリカ行ってもこの仕事は続けたいし、私にとってこの仕事は私が私であるために必要なことだからやりたいことリストの一つ。
そのために現在NCLEX(アメリカの看護師国家試験)の勉強中です。
のらりくらり進めばいいもんね。
Lulu.